2020年8月14日 (金)

『新宿西口地下の「メトロ食堂街」が9月30日で閉館へ』

新宿西口地下の「メトロ食堂街」が9月30日で閉館へ 「ショック」「名店揃いだったのでかなり残念」など惜しむ声も

新宿西口地下の「メトロ食堂街」が9月30日で閉館へ 「ショック」「名店揃いだったのでかなり残念」など惜しむ声も
都庁方面から見た入り口(メトロ食堂街のサイトより)
       

 

 新宿駅西口地下にある「メトロ食堂街」が、9月30日で閉館となることが分かりました。閉館を告知する写真がTwitterで話題になっており、編集部で東京メトロ都市開発に問い合わせたところ「閉館は事実です」とのことでした。

 JR新宿駅・東京メトロ丸ノ内線新宿駅・都営地下鉄大江戸線新宿駅から直結で、地下1階は主にレストラン・カフェなどが入った「メトロ食堂街」、地下2階はショッピングフロアの「メトロプラザ」となっていましたが、いずれも9月30日で閉館予定とのこと。

 パーコー麺で有名な「万世麺店」や、パンと西洋料理の「墨繪(すみのえ)」、日本そばの「永坂更科布屋太兵衛」など人気店も多く、閉館が話題になるとTwitterでは残念がる声も。東京メトロ都市開発によると、閉館の理由は「新宿西口の再開発に伴って」とのこと。各店の今後や移転先などについては把握していないそうですが、墨繪の公式サイトでは、10月中旬に新宿センタービルに移転することが告知されています。

2020年8月13日 (木)

『週刊新潮 2020年8月13・20日夏季特大号』

2020年8月12日 (水)

『北方領土元島民、高齢化が進むなか「後世に語り継ぐ意義は年々大きくなっている」』

北方領土元島民、高齢化が進むなか「後世に語り継ぐ意義は年々大きくなっている」

記事まとめ

  • 戦後75年を控え、北方領土問題は解決の道筋が見えない。
  • 元島民の男性は「後世に語り継ぐ意義は年々大きくなっている」と訴える。
  • 語り部の高齢化が進む中、領土返還の願いを胸に今後も思いを伝えていくという。

「語り継ぐ」、決意新た=進む高齢化、コロナで打撃も―北方領土元島民の河田さん

 

 戦後75年を控え、解決の道筋が見えない北方領土問題。返還を求める元島民らは自らの体験を次世代へ伝える活動に力を入れるが、今年は新型コロナウイルスの影響で啓発機会も大幅に減った。語り部の高齢化も進む中、歯舞群島多楽島出身の河田隆志さん(83)は「後世に語り継ぐ意義は年々大きくなっている」と訴える。

 終戦直前、日本に宣戦布告したソ連の軍隊は、1945年8月18日に千島列島に侵攻。戦力で日本軍を圧倒した。

 河田さんは同年9月4日、ソ連兵約30人が多楽島に来た日をよく覚えている。終戦当時、島内の日本人は約1400人。河田さんは8歳だったが「上陸するソ連兵に戦う様子が見られず、あまり怖さはなかった」と語る。

 ソ連兵は島内の学校や日本軍の兵舎を相次ぎ占拠。家に押し入り、腕時計などを奪った。一方、戦闘服の洗濯や傷の手当てを頼みに河田さん宅を訪れる兵士も。言葉が通じず、身ぶり手ぶりの意思疎通だったが、コンペイトーや乾パンをもらったこともあったという。

 こうした歴史や体験を次世代に伝える機会は年々、減少している。北海道によると、かつて約1万7000人いた元島民は約5700人まで減少。平均年齢も85歳と高齢化が進む。

 さらに今年は新型コロナも追い打ちをかける。北方領土に近い根室市など1市4町は啓発のため、道内外の修学旅行誘致に力を入れるが、訪問予定だった19中学・高校のうち15校がキャンセル。「さらに学校数が減る可能性もある」と市担当者は肩を落とす。

 約5年前から語り部活動を続ける河田さんは、ソ連兵との交流など、自身の経験を学生ら若い世代に伝えることの重要性を感じている。「75年たった今でも、北方四島は日本領であることを忘れないでほしい」。領土返還の願いを胸に今後も、元島民の思いを伝えていく。 

『 『飲酒運転容疑で巡査逮捕=富山県警』

飲酒運転容疑で巡査逮捕=富山県警

 

 富山県警は12日、道交法違反(酒気帯び運転)の疑いで、県警通信指令課の巡査、米田涼悟容疑者(25)=同県高岡市角=を現行犯逮捕した。飲酒運転を認め、「迷惑を掛け申し訳ない」と話しているという。

 逮捕容疑は12日午前2時7分ごろ、高岡市能町の市道で飲酒運転した疑い。

 県警によると、パトロール中の警察官が交差点で信号無視をした車を発見し、追跡して停車を求めたところ、道路を脱輪して停止。職務質問に飲酒を認めたため検査した結果、基準以上のアルコールが検知された。米田容疑者は11日が非番で、11日夜から高岡市内の飲食店で飲酒していたという。

 県警の青木貴夫首席監察官は「現職の警察官が逮捕されたことは誠に遺憾であり、関係者および県民の皆さまに対して深くおわび申し上げる。今後、事実関係を捜査・調査の上、厳正に対処する」としている。 

『【特別手記】「御巣鷹山」48時間の地獄絵図』

【特別手記】「御巣鷹山」48時間の地獄絵図

 

 1981年に防衛大を卒業し陸上自衛官になった私は、事故のちょうど1年前に、千葉県の習志野駐屯地に所在する第1空挺団に配属されました。普通科群普通科中隊(当時)の小隊長として30名ほどの部下を率いる立場で、階級は2等陸尉。まだ独身で26歳でした。

 自衛隊では8月に定期異動があり、12日は駐屯地内の「隊員クラブ」で、転入隊員の歓迎会が開かれていました。私はお酒も飲んだため、駐屯地外に借りていたアパートには戻らず隊舎で寝ることにしました。

 その晩、中隊当直幹部として勤務していたのが、作間優一2等陸曹(当時36歳)でした。寝る前に作間2曹から、航空機墜落の報告を受けました。第12師団(当時)の担任区域における事故らしく、第1空挺団に災害派遣の準備命令等が発出されていないことを確認し、ひとまず眠りにつきました。

 その間、ヘリコプターからのリぺリング降下(ロープを使った垂直降下)による迅速な現場進出の必要性から、第1空挺団の出番となり、第12師団に配属しての災害派遣が翌早朝までに決していたのでした。

 朝5時前には「命令受領ラッパ」が鳴り響き、営内に残っていた我々は即座に出動準備を整えて集合、V-107という大型ヘリ6機に乗り込み、7時54分、習志野を出発しました。準備といっても、装備を詰めた背のうは常に用意してあるので、出発前に地図と乾パンを支給されたくらいです。

 6機のヘリのうち、1番機には第1空挺団派遣部隊指揮官である普通科群長以下の「救助部隊本部」の要員が、2番機から6番機にはそれぞれ隊員12名が乗り込みました。12名のうち1名は衛生隊員なので、私は3番機の小隊長として、自分の部下から10名を選抜しました。

 小隊長である私のサポート役として、普段の演習でも常に一緒に行動していた作間2曹は、もちろん真っ先に指名しました。ヘリのパイロットたちもいつになくピリピリしていて、張り詰めた空気が漂っていました。

 現場の「御巣鷹の尾根」上空に到着し、降下を開始したのが8時48分。まず1~3番機の隊員が現場に降り、4~6番機は麓の相馬原(そうまがはら)でいったん待機することになりました。空挺部隊には指揮官が“先頭降下”するという伝統があって、3番機では私がリーダーですから、最初にロープを伝って山の斜面に降り立ちました。私の次に降りたのは作間2曹です。

 空挺隊員にとってリぺリング降下は日常茶飯事ですが、急峻な斜面に着地した瞬間、強烈な違和感を覚えました。ブーツの裏にグニャッとした柔らかい感触があったんです。「なんだろう?」と思って足下を見ると、そこにあったのは人の“耳”でした。ご遺体を踏んでしまったことに気づき、すぐに“申し訳ございません”と心の中で謝りました。

 降下後、普通科群長が命令を下達しました。我々の任務は、「生存者の救出」と「地形の偵察」です。2番機の小隊と共に生存者を捜索しながら尾根を登っていきました。私と2番機の小隊長を中心に、左右各人5~10メートルほどの間隔で横一列に広がって斜面を登るのです。

■「生存者発見!」

 

 息を飲む光景でした。航空機燃料が燃える独特の臭いがして、岩肌には人の内臓がベタッと張り付いている。見上げると、髪の毛が付いた頭皮が木からぶら下がっていました。傾斜がきつく、木の幹に掴まりながら登るのですが、触った瞬間に滑る感じがする。見ると木全体が血と肉片で真っ赤に染まっていました。私の後ろを歩いていて、やはりその“赤い木”を触ってしまった隊員が「ギャーッ」と大声で叫びました。

 その時に私が感じたのは、「職業選択を間違えた」ということです。地獄絵図のような現場を目の当たりにして、私は「戦場の光景というのは、多分こういうものだろうな」と考えました。とても耐えられない、おれはこの仕事に向いていない、そう思いました。部下の前では表情にこそ出さないものの、それが本音でした。御巣鷹は私にとって初めての災害派遣だったのです。翌朝には慣れて、そういう気持ちは払拭されたのですが。

 同時に、隊員の誰もが「こんな悲惨な状況で、生存者なんているわけがない」と感じていました。斜面を上がれば上がるほど、まともな形を残したご遺体も少なくなっていきます。あるのは手や足だけの部分遺体や、肉片、皮膚ばかり。あまりに凄惨な場所でした。こんな事故で、到底人間が生きていられるはずがない、と。

 生存者を見つけられないまま尾根を登り、今度は別の方角に向かって下りながら捜索を続けようとした時です。無線から驚くべき情報が流れてきました。「生存者発見!」。耳を疑いました。「えっ?」と他の隊員と顔を見合わせました。

 無線を送ってきたのは、4~6番機から降りたグループでした。当初、相馬原で待機を命じられた3機は、我々のおよそ1時間後、9時45分に現場へ来て降下を開始しました。我々が降下地点から尾根を登って行ったのに対し、彼らは群長の命令で逆方向に下りながら捜索をしていたのです。そして、「スゲノ沢」と呼ばれるあたりで、麓から徒歩で登ってきた地元の消防団や松本駐屯地の第13連隊と合流し、そこで4名の生存者を発見したのです。

 尾根の上にいた我々には、「降下地点に戻れ」と指示がありました。急峻な山の中で、その辺りがかろうじて平坦になっていたからでしょう。その付近から生存者をヘリに吊り上げることになりました。降下地点に戻り暫くすると、下から生存者が運び上げられてきました。たしか事故機のトイレのドア等を担架がわりにして運んできたと思います。

 生存者4名は、あの悲惨な現場で一晩発見されずにいたので、当然かなり衰弱していました。そのうちの一人の少女、後で川上慶子さんと知ったのですが、彼女に「頑張れ!」と声を掛けると「うんうん」と頷くようなリアクションがありました。それを見て「大丈夫だ、助かる」と思いました。

 でもそこからが長かった。救出用のヘリがなかなか来ないのです。こちらからは何度も要請しているのに一向に来ない。報道陣のヘリも含め、多くの航空機が上空に飛来していたため、二次災害の危険もありました。

 結局、生存者が吊り上げ地点に搬送されてから、ヘリへの収容が完了するまで1時間近くかかりました。ヘリを待つ間、誰もがイライラしていて、そのうち、現場に到着された赤十字の女性の看護師さんから、ものすごい剣幕で怒鳴られたんです。私の顔をキッとにらんで、「もしこの人たちが亡くなったら、あんたたちのせいだからね!」と。それはよく覚えています。「おれだってどうしようもないんだ」という気持ちでしたね。

 ヘリを待ちながら、現場ではホイスト(ヘリからのワイヤによる吊り上げ)準備をしていました。赤十字の医師から、「隊員が直接抱えて上げたほうがいい」と言われて、自衛隊の茶色い毛布で生存者の体を包みました。最初に吊り上げたのは、吉崎美紀子さん(当時8歳)です。毛布に包んだまま、空挺隊員が抱えてヘリに収容しました。

 次が当時14歳だった川上慶子さん。彼女を収容したのが、私の相棒だった作間2曹でした。1人目と同じように、毛布で包んで準備をしていると“事件”が起きました。救出される生存者の姿を撮影したかったのでしょうが、なんと、いつの間にか周りにいた報道陣から手が伸びてきて、毛布を剥ぎ取ったんです。「何をするんだ!」と怒りましたが、もうヘリは真上にいてワイヤが下りてきている。仕方なく、作間2曹は毛布無しで川上さんを抱えて吊り上げられました。

 3人目の吉崎博子さん(美紀子さんの母、当時34歳)と4人目の落合由美さん(当時26歳)は、担架に乗せた状態で吊り上げました。というのも、抱えて吊り上げるには脱力した大人は相当重たく、途中で落下する恐れもあり、危険だと判断したのです。

 ここで我々はミスを犯してしまいました。3人目の吉崎さんのお母さんを乗せた担架が、ヘリから吹き下ろされる風を受けて、吊り上げた途端にグルグルと回転してしまったのです。すごいスピードで回転して、いまにも担架から体がずり落ちてしまうのではないかと気が気ではありませんでした。私は真下で両手を広げて、「万が一落ちてしまったら、絶対に受け止めなくては」と覚悟していました。

 結果的には無事に収容できたのですが、これは我々の本当に初歩的なミスです。本来、担架の把手にロープを付けて、担架が回転しないように地上の隊員がロープを保持すべきなのです。基本的な作業ですが、やはり異様な現場に平静でいられなかったのでしょうか、あの非常時に誰もそれに気づかないまま吊り上げてしまった。今でも思い出すたびに血の気が引きます。最後に落合さんを収容する際は、きちんと補助ロープを付けました。

 生存者の救出を終えたのが、13日の13時29分。そこから次の任務が命じられました。ヘリポートの構築です。獣道すらない急峻な山に、人員や救助物資を迅速に送り込むにはヘリを使うしかない。我々は上空からロープで降下できますが、以後の作業にはヘリを着陸させることが必須でした。

 普通科群長は私に、大型ヘリ(V-107)用を一つと中型ヘリ(HU-1H)用を一つ、あわせて二つのヘリポートを構築するよう命じました。我々は訓練・演習で簡易ヘリポートを作りますが、その際、なるべく広くて平坦な場所を探します。そこで私は、日航機の主翼が落ちていた辺りに目をつけました。その辺りは比較的広くて平らだったからです。ただ、航空機事故ですから、事故原因の究明のために現場検証も必要です。勝手に現場の状態を変えるわけにいかないので、現場を管轄する群馬県警の責任者を探しました。

 周りにはたくさんの警察官がいましたが、長野県警だったり警視庁だったりで、なかなか群馬県警の責任者が見つからない。ようやく見つけて交渉したところ「ダメだ」の一点張り。仕方なく、現場検証を要しない下方の地点に決定し、周辺の木を切り倒して斜面を掘削し、削った岩石や土を下側に盛るやり方で、中型ヘリ用ヘリポートのみを作ることにしました。

 我々がヘリポートを作っている間にも、続々とご遺体が運ばれてきます。やがて夜になり、13日の深夜にはヘリポートの大枠ができました。暗い中では細かい仕上げができないので、その日はその場で仮眠することにします。そして翌14日の朝3時頃から作業を再開し、7時頃にヘリポートが完成しました。

■“モミジ”

 

 ただ、この仮眠がつらかった。翌朝からヘリで搬送するべく、ヘリポート付近にはご遺体が集められていました。その隣で横になって眠るのですが、真夏の暑さで傷んだご遺体は、死臭を発しているんです。何度も目を覚ましました。

 14日は、完成したヘリポートを使って朝から何度もヘリが往来し、15時くらいまでに計121のご遺体を搬送しました。この数字に関しては苦い思い出があります。この日、上級部隊から連絡幹部が現場にやってきたのですが、ヘリポートの運用を指揮していた私を見るなり、「今日は何体運んだ?」と聞くのです。私は返答に窮しました。

 ご遺体といっても、五体満足なものは少なくて、手だけ、足だけといった部分遺体も多い。それを現場では努めて早く収容すべく、個別に包装した部分遺体の何体かを一緒に毛布に包んで“1包み”として搬送していました。そういう状態で“121包み”搬送したのであって、「何体か」と聞かれてもわからないのです。

 ところが連絡幹部は、即答できない私を見て、「それでも責任者か!」と叱責したのです。ロクに寝ていなかったせいもあるでしょうが、さすがに頭に来て、部下の一人に「おい、そこの毛布を開けろ!」と命じました。そして「あなたには、このご遺体が“何体”かわかるんですか!?」と聞き返すと、相手も黙ってヘリに乗って帰っていきました。

 今思い出しても、いちばんつらかったのは「モミジ」です。ご遺体の搬送準備中、ビニール袋に入った何かが運ばれて来ました。赤くて小さくて、最初はモミジの葉のように見えました。でもそれは、血に染まった小さな子どもの掌だったのです。徐々にご遺体を見ることにも慣れていたのですが、あれは衝撃的でした。本当にかわいそうで、堪らない気持ちになりました。

 14日の15時過ぎから天候が悪化し、ご遺体の搬送作業はそこで中断しました。雨がしとしと降る中、その夜も前日と同じようにご遺体の隣で仮眠し、翌15日の朝、我々空挺部隊は任務を終えてヘリで習志野に帰投しました。ですから、私が御巣鷹山にいたのは13日の朝から15日の朝まで、48時間くらいです。睡眠も食事も不十分なまま過酷な状況にいたので、今思えばかなりストレスが溜まっていたのでしょう。

 警察と喧嘩もしました。自衛隊のヘリが運んでくるのは、ツルハシやスコップなどの工事用器材、ご遺体収容のための毛布だとか、任務に直結するものばかりです。ところが警察のヘリは、弁当やタバコ、寝袋やらをたくさん運んでくる。

 ある時、広げたままの寝袋が、ヘリの風圧で巻き上げられそうになり、近くにいた私の部下が慌てて飛び乗って押さえた。すると警察官が彼に向かって「おい自衛隊さん、寝袋に穴開けないでくれよな」と言い放ったのです。部下は休憩中だったのでタバコをくわえていました。警察官には、彼がふざけて寝袋に寝っ転がったように見えたのでしょう。私はその警察官に「馬鹿野郎! 寝袋が巻き上げられてローターに接触したら、ヘリが墜落するだろうが!」と怒鳴りつけました。

 マスコミにも腹が立ちました。川上さんの毛布を剥ぎ取ったこともそうですが、遺体の写真ばかり撮る輩もいて、思わず「いい加減にしろ!」と叱ったこともあります。とはいえ、14日の昼頃、ある新聞記者が持ってきた朝刊を見た時は、やっぱり嬉しかった。そこには、川上さんを抱えてヘリに向かう作間2曹の写真が1面に載っていたのです。

 今でこそ災害時の自衛隊の活動はメディアでも取り上げられますが、当時の自衛隊はある意味、日陰者でした。マスコミが現場にいるのは認識していましたが、我々の活動が大々的に被写体になるなんて私自身は想像もしておらず、とにかく驚きました。それと同時に、おれたちは正しいことをしているんだ、という実感が湧いてきたんです。

 ただ5年前、事故から30年ということであるテレビ局の取材を受けた際、ディレクターから開口一番、「なぜ自衛隊の到着が遅れたんですか」と聞かれたのは心外でした。そもそも当時の災害派遣は、要請を受けて初めて出動できる仕組みでした。勝手に現場に向かうことはできません。

 また、「夜のうちに現場へ行けなかったのか」などという人もいます。我々空挺部隊・普通科部隊は深夜の現場であっても救助活動することは可能ですが、輸送に任じた当時の自衛隊のヘリには暗視装置が装備されておらず、暗夜における未知の山地・森林の飛行は危険極まりないものでした。一方で12師団隷下部隊は、夜を徹してまさに暗中模索で現場に向かって山を踏破していたのです。自衛隊はできる限りのことをやったと私は今も確信しています。

■ストレス障害

 

 御巣鷹での経験は、私のその後の自衛隊人生にも影響を与えました。一番大きいのは、「ストレス障害」について身をもって学んだことです。実は習志野に戻った後、私は不眠症に悩まされました。

 昼間仕事をしている時はなんともないのですが、夜アパートに帰ると、暗い場所があるのが苦痛に感じられるのです。寝室はもちろん、トイレや風呂の電気もつけっぱなしにしておかないと落ち着かない。そして就寝中にふと窓に目をやると、ベランダにたくさんの人が並んで私を見ているのです。ほぼ全身の人もいれば、上半身のみの人、炭化した人など、全員、御巣鷹の現場で我々が後送に関わったご遺体のお姿そのものでした。

 もちろん幻覚だと自分自身納得しています。彼らが現れることに恐怖心を覚える反面、それほど不快には感じなかった。ただただ、「なんで現れるんだ」という気持ちでした。結局、ウイスキーをガブ飲みしないと眠れない状態が1カ月ほど続きました。

 この間は肉類も全く食べられませんでした。でも、当時の私はそれを仲間の誰にも言えなかった。あの頃の自衛隊には、まだストレス障害という概念もなかった。空挺団は、男の中の男が集まった猛者ぞろいの精鋭部隊です。年上の部下を統率する若手幹部として、弱みは見せたくなかった。上司に相談しても「頭がおかしくなったのか? 病院に行ってこい」と言われるだけだと思うと、誰にも相談できなかった。

 ただ、御巣鷹に出動した者の中で、外泊を申請して出掛けたはずの営内居住隊員が、“不気味に感じる”と言って駐屯地に帰ってきて皆と一緒に寝ているという話を聞いた時は、妙に安心しました。私はその隊員に向かって「情けない奴だ」と笑ってやったのですが、内心、「おれだけじゃない、みんな同じなんだ」とホッとしたことを覚えています。

 それからずっと後の、私が1等陸佐として連隊長を拝命した2003年、自衛隊がイラクに派遣されました。私も派遣に備えて、部隊指揮官としてストレス障害に関する教育を受け(結局私自身はイラクには行かなかったのですが)、更にその後の勤務でも、指揮官・幕僚にとって必須の知識として学びました。

 そこで、当時26歳の私が御巣鷹山から帰って体験したことが、まさに「急性ストレス障害(ASD)」の典型例だったと気付いた。それ以来、ようやく自分の経験を他人に話せるようになりました。ちなみに、ASDの状態が1カ月を超えて続く場合は「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」とされます。

 戦場や大規模災害の被災地などの過酷な状況下では、どんなに強い人間でもストレス障害になり得る。それを私は、知らないうちに自ら経験していたのです。たった48時間の任務で、私の心は壊れかけてしまった。そしてそれをひたすら隠し、一人で悶々と悩んでいた。

 現在の自衛隊では、海外派遣や災害派遣のたびにメンタルヘルスに関するケアを体系的に行っています。任務終了後の隊員を一人でストレス障害に立ち向かわせるような状態に放置することはありませんし、仮にあったとすればその指揮官は失格です。そういった意味で、この貴重な体験は私自身にとって、指揮官として大勢の部下を率いて任務を完遂する上で大きな糧となりました。

 あの悲しい事故から35年を迎える今、改めて犠牲者のご冥福と、生存者やご遺族の方々の人生に幸多からんことを、心からお祈り申し上げます。

岡部俊哉(おかべとしや) 元陸上幕僚長
昭和34年、福岡県生まれ。元陸上自衛官(防大25期)。第6師団長、北部方面総監などを経て、2016年、第35代陸上幕僚長に就任。2017年8月に退官。

「週刊新潮」2020年8月13・20日号 掲載

 

 

『水道蛇口から水盗む 男女2人逮捕』

フン害招く餌やり男女、水道の水1リットル盗む…「掃除に使おうと」

 

 大阪市住吉区のマンションゴミ置き場の水道から水を盗んだとして、大阪府警住吉署は11日、近くに住む無職の男女2人を窃盗容疑で現行犯逮捕した。

 2人を含むグループ数人は10年以上前から住宅街でハトやカラスへの餌やりを続けており、男は「餌やり後の掃除に使おうとした」と供述し、容疑を認めているという。

 発表では女(55)、男(78)の両容疑者。2人は11日朝、同区のマンションゴミ置き場に設置されていた水道の蛇口から水1リットルを盗んだ疑い。女は容疑を否認している。

 2人を含む数人の餌やり行為はハトなどのフンや騒音で近隣住民の迷惑となっており、大阪市が条例を改正し、餌やり後の清掃を義務付けるきっかけとなった。昨年12月の施行後、グループはフンを掃除するようになったが、その際の水を盗んでいたとみられる。

 大阪市の松井一郎市長は11日、迷惑な餌やり行為を規制する6月施行の改正動物愛護法をこのグループに適用し、餌やり行為をやめるよう指導する考えを明らかにした。

『NZ、オークランドを3日間封鎖へ 102日ぶり新型コロナ確認で』

NZ、オークランドを3日間封鎖へ 102日ぶり新型コロナ確認で

NZ、オークランドを3日間封鎖へ 102日ぶり新型コロナ確認で

 

[ウェリントン 11日 ロイター] - ニュージーランドのアーダーン首相は11日、同国最大都市オークランドで4人の新型コロナウイルス感染が確認されたことから同市を3日間封鎖すると発表した。
ニュージーランドで新型コロナの感染が報告されたのは102日ぶり。
アーダーン氏は緊急記者会見で、「予防的な措置」として12日正午からロックダウン(都市封鎖)措置を「レベル3」にすると説明した。14日まで学校や企業が封鎖され、10人を超える集会が禁止される。
オークランドへの入境は居住者以外制限される。そのほかの地域は12日正午から3日間「レベル2」とし、ソーシャルディスタンス(社会的距離)が必要となる。アーダーン氏は国民にスーパーなどでの買いだめを控えるよう訴えた。

『米州のコロナ感染1日10万人超、米が半分占める=WHO幹部』

米州のコロナ感染1日10万人超、米が半分占める=WHO幹部

米州のコロナ感染1日10万人超、米が半分占める=WHO幹部

 

[ブラジリア 11日 ロイター] - 世界保健機関(WHO)の幹部は11日、米州における新型コロナウイルスの1日当たりの新規感染者数が10万人を超えたと明らかにした。米国がうち半分を占めているという。
また、アルゼンチンやコロンビアなど、感染が収まっていた国で再び拡大していることに懸念を表明した。
WHOの米州地域事務局・汎米保健機構(PAHO)のカリッサ・エティエンヌ事務局長は「米州はコロナウイルスの支配下にある」と警鐘を鳴らした。
さらに、中米で感染者が増加していると指摘。ベリーズでは今週、新規感染者がこれまでの最多を記録したほか、ドミニカ共和国では他のカリブ海諸国の感染者の合計を上回っていると述べた。

『都構想「どの特別区も黒字」』

大阪都構想「どの特別区も収支黒字」 府と市が試算 コロナ影響は未反映

 

大阪都構想「どの特別区も収支黒字」 府と市が試算 コロナ影響は未反映

大阪市役所=大阪市北区中之島1で2019年3月18日、林由紀子撮影

 大阪市を廃止し、四つの特別区に再編する大阪都構想を巡り、大阪府と同市は11日、2020年度当初予算を前提にした新たな財政シミュレーションを公表し、いずれの特別区も収支不足にならないと結論付けた。ただ新型コロナウイルスの影響による税収減は「想定が困難」として反映しておらず、18日に開会する府市両議会で反対する会派から異論が出そうだ。

 制度移行後の25年度から15年間、特別区の財政運営が成り立つかを検証する目的で府市が作成。従来は18年2月時点の財政状況を基に算出していたが、今回は新型コロナの経済対策として前倒しして実施した小中学校の給食費の無償化の事業費(約77億円)などを盛り込んだ最新の財政状況を反映。当初の試算では、39年度には4区で計211億円の黒字になるとしていたが、計71億円に圧縮された。

 一方で、新型コロナによる税収減や支出増については、「合理的な根拠に基づいた適切な試算は現時点で困難」との理由で試算しなかった。府市は、減収分などは地方交付税などで国の財政措置が想定されるため、新型コロナによる影響は出ないと説明するが、国の対応は現時点では決まっていない。【矢追健介】

 

『「命を奪うような暑さ。暑いけど大丈夫だと過信するのが危ない」医師が熱中症に警鐘』

熱中症予防に外出時は水など必携 医師が1日8回の水分補給を提案

記事まとめ

  • 11日、群馬・伊勢崎市などで、全国初の40度超えの気温となった。
  • 「ゴゴスマ」で医師が外出時には必ず水などを持ち歩くようにとコメント。
  • 熱中症の予防として1日8回の水分補給を提案した。

「命を奪うような暑さ。暑いけど大丈夫だと過信するのが危ない」医師が熱中症に警鐘

「命を奪うような暑さ。暑いけど大丈夫だと過信するのが危ない」医師が熱中症に警鐘

 

 TBS系情報番組「ゴゴスマ」(月~金曜・後1時55分)では11日、群馬・伊勢崎市などで、全国初の40度超えの気温となったことを取り上げた。

 番組では全国各地の暑さの様子を伝え、熱中症の怖さについても紹介。ゲストコメンテーターで医師の大妻女子大・森田豊特任教授は「命を奪うような暑さ。自分は暑いけど大丈夫だと過信するのが危ない。とにかく暑さから避難しよう、避難しようと思うことなんじゃないか」とし、「外出する時には必ずお水とか、経口補水液などを持って行くということが大事」とコメントした。

 また「熱中症になる前というのは、体の中から水分が奪われる。水分が奪われると重要な臓器、心臓とか肝臓とかに血液を流そうとしますから、自然と手に血液が少なくなったり、皮膚の下にも血液ですか水分が少なくなる。(指が)冷たくなったり、皮膚の張りがなくなったりという予兆が出る」と説明した。

 熱中症の予防として1日8回の水分補給を提案。あらかじめ時間を決めて飲むべきとした。森田医師は「特に夜、寝てる間は水分を取らない。だから、朝は血液が濃縮していて血管の中に血栓ができやすい。夜、熱中症が起きやすいというのも、夜水分を取っていないからなんですよね。夜寝る前にある程度水分を取る、朝起きたらすぐに水分をとれるように、枕元に水分を置いておくというのも大事」と水分補給の必要性を訴えた。

 注意事項としてさらに「体が暑いといったら頑張りすぎず早めに涼を取る。涼しいところに移動する。不要な外出は避ける。あとはこまめな水分補給はのどが渇いてなくても行う。汗をかいたら塩分もきちん補う。睡眠不足になるとどうしても熱中症になりやすいので、きちんと睡眠を取るように。夜間の涼しめにする。冷房をつけっぱなしにして寝るということも選択肢として重要」と呼びかけた。

«『コロナ患者が宿泊療養施設から無断外出、大阪府で相次ぐ』

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